愛を諦めろ!全国魔法使い連盟

自分は単独者である。にもかかわらず、社会のなかで他者と生きる。

山川方夫「にせもの」より

 なぜ、おれは女を愛さなければならないのか。ーいや。このいい方はまちがっている。魚や犬や、虫だって、愛するのだ。ただ、魚や犬や虫は、詩は書かない。心中をしない。あくまでも単独な一本の線の自分だけをしか生きない。そうだ、こういうべきなのだ。なぜ、おれは魚や犬や虫のように、女を愛することができないのか?

 おれは人間だ。正常な人間だ。それはまちがいない。客観的にも五体と健康をそなえ、手取り一万三千円の月給とり、下町のある乾物屋の次男、そしてたぶん、勤め先で机を向かいあわせている阿井トヨ子の、恋人であるらしいこともまちがいない。おれは、どちらかといえばクソ真面目な、平凡な、いいたくないことだがやや感傷的な、気の弱い二八歳の独身者でもある。でも、たしかにおれは人間であり、人間の一人だからこそいうのだ。・・・ああ、あのいやらしい人間。一つの理不尽のかたまり。そのくせしゃあしゃあとした、もっともらしい、わけしり顔のバカな動物ども。そうぞうしく、うるさいだけの混沌。・・・そして、べとべとと肌にねばりついて、不定形な、不透明な、つかみどころのない曖昧な雲みたいな、つねにそんな肌をこえてくる一つの重みであるすべての人間との関係。生きているというだけの理由で、なぜ、おれはそれをしょいこみ、この侵入を負担しなければならないのか。なぜ、人間だけが、それに耐え、それをあきらめねばならないのか。

山川方夫「海の告発」より

 東京が近づいてくるのを、私は全身で感じとっていました。痛みか恐怖かのようにひりひりと疼くほどに、それをかんじました。

 そのとき、私には、ふいにいっさいを整理してしまいたいような気がしてきたのでした。一人になって、東京に帰りたい。一人ならば死ぬにせよ生きるにせよ、いざとなれば自分ひとりの始末だけをすれば責任が取れてしまう。ーー思うと、とたんに熱烈に私に一人きりになりたいという願い湧き上ってきたのでした。そうだ、私はこれをもとめて、あらゆるものからの曖昧な支配をのがれるため、夫をはっきりといない人、死んだ人にしてしまうためにこの旅に出たのだ、自分がひとりだということを回復するために旅に出たのだ。私ははっきりとそう思いました。身がるに、清潔に、体あたりで、私は一人だけで勝手に生きて行きたい。・・・

 私は、一人になりたかったのです。その、私が一人であることをさまたげるすべてのもの、それを始末してしまいたかったのです。

稲垣足穂「弥勒」より

 もう三月であった。その日一日じゅう、鬼に責められた彼は夜になると勇気を出して、よろめきながらも銭湯へ出向くことにしたが、今度は大人連までもがじろじろと自分を見詰めているようであった。こんな異邦人のような寂しい気持ちはいったい何処から来るのだろうと、改めて自問せずにはおられない。この「前後を忘ずるばかり」な寂寥は、人間とは総てこのような寄辺のない者であると考えたところで、また自分だけに属する神経症のせいだろうと解釈してみても、度が過ぎていると思われるのだった。他の人々では決してこんなに厳しい度合いではないーーそうとしか思えない。多分、自分に根本的な欠陥があるのだと考えられたが、さてそれがどんな点なのかそこをどう扱ってよいのか、てんで見当がつかない。

山川方夫「遠い青空」より

 僕は、いま糸の切れた凧のようにふわふわと空中を漂う、位置も重みもない架空の一点に過ぎない。一つの自由意思という抽象的な存在に化しているのだ。だから、名前もない。役目もない。話しかけられもしない。決定を要求されもしない。特定の学校の生徒でも、特定の家族の息子でも兄でもない。それは、家計や姉の縁談まで相談される十八歳の戸主(父を亡くした僕の家で男は僕一人だった)の僕にとって、胸の躍るような開放の意識だった。現実の条件のいっさいを脱れて、僕はいま、一人の任意の男である。僕は僕ではない。僕でなくていいのだ。今は僕は、均等で平等な、群衆を構成するその単位の一つに過ぎない。…そして僕は、深海魚がふいに海面ちかくにポッカリと浮かび出たときのように、その信じかねるほどの自分の身の軽さに、ひとつの膨張しきった浮き袋を、浮き袋の中に充満した空白をかんじた。空白とはつまり僕の消滅したあとの空虚なのだ。いわば僕はその身の軽さに「僕」の死を感じたのだ。

 深海魚は海底の暗さと水圧の高さなしに生きることができない。だから僕の感じたスリルとは自殺のスリルだったとも言えるだろう。いつもの僕は死んだ。いつのまにか、快適な自殺を遂げ消滅してしまっている。いま、ボクは空っぽである。ボクは居ない。ボクは無である。…何故かその意識が、僕を青空の恍惚にさそう。ひろびろとした自由の天国に誘う。

山川方夫「愛のごとく」より

 私はいつも自分にだけ関心をもって生きてきたのだ。自分にとって、その他に確実なものがなにもなかったので、それを自分なりの正義だと思っていた。私はいつも自分を規定し、説明し、自分の不可解さを追いかけ、自分をあざけり軽蔑してくすくすと笑いながら、でも仕方なく諦めたみたいに、その自分自身とだけつきあってきたのだった。自分とだけつきあう。それが可能か不可能か、それは別のことだ。ただ私はそうしたいと思っていた。そのせいかどうかはしらない。私にはいつも自分はもっとも嫌いな他人だった。私は自分が誰も愛せないのを確信していたのだ。

 

 

「結婚」は、もちろん女やその夫への徳義上の行為ではなく、私の身のかわし方の技術としての行為なのだ。私には、誰とも夫婦になる資格なんてないのだから。

 多分自分には、そのほかの処理はできないのを私は予感していたのだ。それが他人――たとえば女や、その夫――にどんな不幸を招こうと、残念ながら私の知ったことではない。どうせ私にはどうすることもできない。弱いものは死ぬのだ。それが生命をもつあらゆるものの法則だ。私だって、勇者でも強者でもない自分について思うとき、「それでもおれはこれでせいいっぱいなんだ」という尻をまくった叫びと、「でも、なんてイヤらしい男なんだ」という悪罵と、この二つの声が聞えてくるだけのことだ。しかし、私は不幸ではない。たとえ異常にせよ、卑怯にせよ、不幸ではない。私は、他人のことは他人にまかせておく。それが「方針」だ。…私は、そう思っていたのだ。

大江健三郎「叫び声」より

「いま考えてみれば、虎がアフリカへ行きたいように、俺もどこかへ、ここより他の場所へ行きたかったんだなあ。それというのもおれは自分を、おかしな具合でこの世界にいる流刑された、どこかちがう世界の人間だというふうに感じることがあるんだよ。しかもそれはおそらく朝鮮へうまくたどりつけていたにしてもいやされることのなかった感覚なのさ。おれが属しているのは朝鮮というような地図の上に存在している国ではなくて、この世界でない、別の世界なんだ。いわばこの世界の反対の世界だと感じるんだよ。この世界ときたら、それは他人のもので、おれの本来住む所じゃないと感じる。現にいまだっておれは、他人の国の他人の夜更けに、他人の言葉でしゃべっている。明日の朝おれは他人の国の他人の朝を歩くだろう。そんな感じは欲求不満に過ぎないと思うこともあるんだが、とにかく実感ということをいえば、おれにはこの世界にぴったりとして生きているという実感がないんだよ。そしてそれはこの世界におれが、まちがってはいりこみ、まちがって居つづけているからだと感じるわけだ。どういう理由からにしてもともかくこの呉鷹雄、十八歳は、この世界の本当の人間でなくなってるんだというわけなのさ!わからないだろう、全然!」

中島 敦「かめれおん日記」より

 実際、近頃の自分の生き方の、みじめさ、情なさ。うじうじと内攻し、くすぶり、我と我が身を噛み、いじけ果て、それで猶、うすっぺらな犬儒主義(シニシズム)だけは残している。こんな筈ではなかったのだが、一体、どうして、又、何時頃から、こんな風になって了ったのだろう?兎に角、気が付いた時には、既にこんなヘンなものになって了っていたのだ。

 

 みんなは現実の中に生きている。俺はそうじゃない。かえるの卵のように寒天の中にくるまっている。現実と自分との間を寒天質の視力を屈折させるものが隔てている。

 

 考えてみれば、大体、今迄の生き方が、まあ何という無意味な生き方だったか。精神の統一集注を妨げることばかりに費やされた半生といってもいい。とにかく私は自分を眠らせ、自分の持っているものを打ち消すことばかり力を尽くして来たようなものだ。

 

 俺というものは、俺が考えている程、俺ではない。俺の代わりに習慣や環境やが行動しているのだ。